よもや真話

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 三鷹ストーカー殺人事件で、高裁判決に対して検察側・弁護側双方が上告しなかったため、懲役22年の判決が確定した。
http://news.livedoor.com/article/detail/12646288/

『女子生徒の両親は代理人を通じ、「懲役22年では軽過ぎる。裁判員裁判だが、司法の判断は普通の人の良識とは懸け離れていると感じる」とするコメントを発表した』

 
手続きに問題があったとして裁判員裁判をやり直すという異例の事態となったこの裁判で、司法に翻弄された遺族の苦しみは計り知れない。一審の裁判に問題があるとして差し戻されたのも、そもそも検察の起訴に問題があったのだと私は思う。起訴内容が「殺人、住居侵入、銃刀法違反」となっていて、脅迫、強要、強姦、ストーカー行為、リベンジポルノ等の被害者が受けたありとあらゆる苦痛に対する罪がひとつも起訴されていないのだ。「殺人、住居侵入、銃刀法違反」これはいったい何の事件の話なんだと言いたくなる。
 起訴状にない罪で裁いた間違った裁判が差し戻されたやり直し裁判では、今度は犯した罪を裁くために必要な罪状を追起訴しておきながら、求刑を無期懲役から懲役25年に減らしてしまったのもおかしい。犯行の残酷さから死刑を求刑してもおかしくないような事件に、求刑の段階から25年の有期刑だとか、なんでそんなことになってしまったのか。

(毎日新聞に載った遺族コメントで理由が分かった)
<2> 最初の第1審の判決について検察官が控訴しなかったこと
最初の第1審で検察官は無期懲役を求刑しながら、懲役22年の判決に対して控訴しませんでした。控訴しなかったため、差し戻し審1審は殺人罪等について懲役22年を変更することはできなくなりました。被害者の立場を十分に代弁し尊重すべき検察に対しては、大変悔しく、残念です。それは自分たちの使命を放棄したとしか思えないからです。
http://mainichi.jp/articles/20170208/k00/00e/040/332000c
(しかしこれも考えると、差し戻されてのやり直し裁判について、破棄されている原判決に対して「控訴しなかった」ことが影響するというのも、ちょっと意味が良く分からない。一審そのものが破棄されたのだから、控訴していたかとか関係なさそうな気がするのだが。)

 破棄された原判決では「男女トラブルの殺人で被害者が1人の量刑の中ではほぼ上限に位置づけられる」とされていたが、差し戻し審理で求刑の段階から有期刑に限定されたのは、この最初の裁判での「男女トラブルの殺人で被害者が1人」という紋切り型で犯罪実態にそぐわない量刑判断が、やり直し裁判でも踏襲されたことになるだろう。
 以前も述べたが、この裁判が最初から犯人が犯した罪に正面から向き合ったものだったら、「男女トラブルの殺人で被害者が1人」などといった無機質な量刑判断にはならず、無期懲役の判決もあり得たと思うし、それが妥当な量刑だと私は思っている。遺族は死刑を望んでいたが、犯人はそれ位の重罪を犯しているし、全く反省する気配もない。この差し戻し審は、そういう犯人が犯した罪に正面から向き合うための「やり直し裁判」であるはずだと私は思っていたのだが、そういうことではなかったらしい。最初の一審で事件に真剣に向き合い判決を出した裁判員の方達の苦労や思いを無にしてまでも差し戻されたのは、結局「裁判の形が悪かったので、体裁を整え直しました」という裁判所のアリバイ作りに過ぎなかったのかも知れない。
 そもそも、ストーカー被害を相談したその日に殺されるという警察の不手際も悔やまれるこの事件で、さらに裁判でも差し戻しという不手際が起きてしまった。司法に振り回され裏切られ続けた遺族のことを思うと、胸が締め付けられる思いがする。

 これで懲役22年の刑が確定したわけだが、2013年の逮捕から未決拘留で3年以上経っているので、刑期はあと19年もない。事件から22年後の2035年、被害者の両親が80歳を超える頃に、犯人は40歳そこそこで刑期を終える。場合によっては30代で仮釈放されるかもしれない。被害者遺族にとって自分の人生が終わりに近づく頃、自分の娘を殺し嬲り者にした男が社会復帰し、40歳からの新しい人生を始めるのだ。被害者遺族にとってこれほど惨いことがあるだろうか。

 東京大学で匿名の告発により大量の論文不正が指摘され、大学側も本調査に入ったというニュースが流れたが、報道の仕方は基本的にはベタ記事扱いで、ネットの議論を見渡しても今のところあまり活発な議論は交わされていないようだ。マスコミのこうした状況に対して「DORAのブログ」では舌鋒鋭く批判し問題提起をしている。
「ビビるマスコミ」

 http://blogs.yahoo.co.jp/nx3262p0yz057j/15109792.html


 この報道は、マスコミ各社に届いた告発状と、東大広報からの記者発表を受けての報道になるが、DORA氏も批判するように各マスコミのスタンスは大人し過ぎるのではないだろうか。

 東大の記者発表にはこういう注意がある。

『なお、報道の取扱いに関しては、本調査の開始が被申立者の不正行為を認定するものではないことに留意いただき、被申立者の現在の研究活動への影響を含め、ご配慮いただきますようお願いいたします。』

http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_280920_02_j.html
 大学の立場からマスコミへのこの要請はもっともなのだが、マスコミ側は大人しい犬のように東大の結果発表を待つのだろうか。STAP騒動の際にも、理研からはマスコミに対して同様のお願いはされていたはずだが、「マスコミの使命」とばかりにマスコミ各社は著者らに対して直接取材攻勢をかけ、それは渦中にある著者らの心神に支障を来すほどの激しいものだった。中でも毎日新聞の須田桃子記者などは「殺意を感じる」程のメール攻撃でスクープ報道に明け暮れ、それを纏めた本を出版し「大宅壮一ノンフィクション大賞」を受賞したことは記憶に新しい。

 今回明らかになった
不正問題は、医学・生科学分野における「学界の腐敗構造」を暴く不正告発である可能性が高く、「マスコミの使命」で言えばこの東大の不正問題こそが、日本の科学の信頼に関わる問題として、報道価値としてもSTAP以上に相当大きな問題の筈だが、今のところマスコミ各社の対応は至って静かである。大手マスコミでは、産経新聞だけが疑惑の当事者として門脇孝教授の実名を挙げ、ちょっとだけ突っ込んだ報道をしているが、朝日、毎日、読売は東大の広報そのまんまといった報道で、お上のお達しを待つ従順な犬といった感じだ。
 ただ、新聞社の姿勢としてはこういう情けない状態でも、記者個人レベルで言えば毎日新聞の須田桃子記者など2匹目のドジョウを狙ってスクープの取材を試みているかも知れない。しかし、須田記者がいくら張り切ったところで、STAPの時のようにリークの餌をホイホイくれる取材など出来る筈もないので、何のスクープも取れずに馬脚を現すことになるだろう。この事案はジャーナリストの真の実力が試されることになるのではないだろうか


 テレビニュースではNHKも報道していて、疑義の具体的内容にも触れたものになっている。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160921/k10010701041000.html

 しかし、取材先は『大学によりますと、告発について6人の教授はいずれもコメントはないと話しているということです。』のように、大学広報を通した取材で、専門家のコメントも取っていなければ、疑惑の当事者に直接に取材依頼もしていない様子。大学からのお願いを素直に聞く従順な犬のようだ。STAP騒動とのこの違いはいったい何なのか。


 STAP騒動では、華々しい記者発表で一夜にしてスターの座に祭り上げられた若き女性研究者の論文不正事件という、如何にも絵になる事件について、「不正を暴く」という大義名分を旗印にマスコミは狂ったように連日連夜の報道を繰り広げていた。しかしSTAP事件で狂ったように騒いだのはマスコミだけではない。

 日本分子生物学会は声明まで出して大騒ぎした。分子生物学会理事長の個人ブログ仙台通信を始めとして、ネット上では連日連夜の謎解きゲームが展開された。大隅典子氏を筆頭とした分子生物学会メンバーの行動は、マスコミに踊らされる「ネトウヨ」と何ら変わりないものだった。もし彼らがネトウヨではなく純粋に不正問題を憂慮しているというのなら「不正は許さん!」の姿勢は今回も同じでないとおかしい筈だが、小保方さんを叩いていた研究者たちの反応はそうではない。東大当局のお沙汰が出るまで待てと「おあずけ」されているかのように静かなのだ。


 STAP騒動で「不正は許さん!」と言って大騒ぎした中山敬一、大隅典子、近藤滋氏ら元分生理事達は、東大の不正問題には1ミリも触れずに全くの沈黙を続けている。STAPであれだけ正義を振りかざしていた研究者達も、東大の先生を怒らせたら自分たちの仕事にも支障が出てしまうとばかりに大人しくしているのか。「ガチ議論」などというサイトも今では匿名A氏の独り言に誰も付き合わなくなり、「捏造に怒りを!」なんて単なるパフォーマンスに過ぎなかったことも露呈した。「不正は許さん!」と言っていた人達の欺瞞には呆れるばかりだ。東京大学という権威の崩壊を防ぐために、このままウヤムヤに終わらせようとする圧力でもあるのではないかという妄想までも膨らんでしまう。


 結局、STAP騒動における日本分子生物学会理事長声明を初め大騒ぎした研究者たちの目的は、「不正は許さん!」ではなく、「理研の予算独り占めは許さん!」「目立つ小保方が許せん!」でしかなかったということなのだろう。そしてこれは岡山大学の問題に対する対応の差にも表れている。

「理研と岡山大学の問題の先にあるもの」
http://mitsuo.blog.jp/archives/1050154734.html

 Yahoo!ニュースに非常に興味深い記事があった。

『「やさしさ」が導く“一発レッド社会”――ベッキー、宮崎議員、ショーンK、“謝罪”の背景にある日本社会』http://bylines.news.yahoo.co.jp/soichiromatsutani/20160407-00056263/
『そこでは世論と呼ばれる感情的な「やさしさ」が優先され、理性的な判断はなされていません。』『ミスによって生じた小さな傷口を、集団が思いっきり開いて再起不能にするのが“一発レッド社会”です。』
『日本では、謝罪が正当化の2.5倍ほど支持される傾向にありますが、アメリカでは正当化のほうが謝罪の1.3倍ほど評価されます。』

 STAP騒動にも通じる分析だが、理研の調査委員会から不正認定をされても「STAP細胞はあります!」と言い続けた小保方さんの「正当化」が、ネットの研究者達の間で憎悪剥き出しに叩かれまくっていた状況下で、「罪を認めて大学院からやり直せば許す」という言説が当たり前のように、それがさも「やさしさ」であるように言われていた。
 その様子はちょうど、刑事ドラマで「お前が殺したんだ」と脅迫的な取調べをし、「正直に話せば罪は軽くなる。話して楽になれ。」と言う場面を髣髴とさせた。しかし、もし「私はSTAP細胞を捏造する研究不正をしました。申し訳ありません。」とでも謝罪してしまえばバッシングは止まるのかもしれないが、何のことはない、やってもいないES混入の罪を確定事実として背負わされてしまうことになるだけなのだ。
 そして、そんな圧力に対して静かに抵抗し続けた小保方さんが、先日、手記「あの日」を出版し、今回ホームページを開設したことに対して、ネットの研究者達の間からは再び非難の声が湧き上がり、印税がどうのと下世話な憶測や、侮蔑的な言葉が浴びせかけられたりしている。

 そうした科学コミュニティからの集団リンチと並んで、一部の女性たちからの感情剥き出しの猛烈なバッシングがあるが、その急先鋒のひとり片田珠美氏が変な記事を書いていた。この記事を見たときはエイプリルフールなのかと思ったが、記事の日付は42日なので本気で書いてるのだろう。

【精神科女医のつぶやき】片田珠美(180)ショック! 三度の飯より悪口好きの私に「You’re fired(おまえはクビだ)」 http://www.sankei.com/west/news/160402/wst1604020002-n1.html

 この人の代表的著書に「他人を攻撃せずにはいられない人」というのがあるが、それはまさに自分のことだったのだと告白している訳だ。世間のバッシングの殆どがこの人のような自己投影であることが、この一件にも良く表れている。

 例えば朝日のWEBRONZAには、これまた胸の悪くなるようなオボ ヘイターが勢ぞろい
しているが、小保方さんは「自立した女性」からは嫌悪の標的となり感情的に叩かれ続け、その一方でそれに対して「可哀想」と感じる女性たちも多くいて、そういった同情をすら非難の対象にする論評『なぜ小保方氏への同情論が消えないのか』が出されるなど、世間はそうした感情論で溢れかえっている。

 また、例えば社会学者の千田有紀氏などは、『小保方晴子さんの「罠」 私たちはなぜ彼女に魅了されるのか』などと客観的分析を行っているように見せかけて、自分自身の嫌悪感が剥き出しになっているのも、結局みな「鏡に映った自分」に向かって叫んでいるのだろう。報道によってイメージされる小保方さんの振る舞いは、フェミニストからは目の敵にされているようで、騒動時に集団ヒステリー状態になった原動力はそういった勢力の存在も大きいのかも知れない。

 STAP騒動は、一般人を巻き込んで日本の研究者達が踊り狂った社会現象とも言えるが、これだけ色んな要素の絡み合った事件も滅多にないだろうし、色んな意味で歴史に残る事件となるだろう。報道によって捏ね上げられた「イメージ」を基にして議論される異様な雰囲気は、事件の本丸から目眩ましする為の仕掛け人がいるのではないかという気さえしてくる。

 小保方さんが大学院生時代に書いた論文が撤回されたらしい。小保方さん以外の共著者からの申し出によるもので、小保方さんとは連絡が取れていないとのこと。

http://www.nature.com/nprot/journal/v11/n3/full/nprot0316-616a.html
Retraction: Reproducible subcutaneous transplantation of cell sheets into recipient mice
Nat. Protoc. 6, 1053–1059 (2011); published online 30 June 2011; retracted 13 January 2016
 「エラーバー」の不自然さが、全体の信頼性を損なうとの理由らしい。小保方さんの改竄行為があったと言いたいようだ。このタイミングでこの理由による撤回がされた理由を憶測すれば、「あの日」によって博士論文再指導と博士号取り消しのやり方を非難された早稲田大学が、揚げ足取り攻撃によって「一連の問題すべてが捏造常習犯小保方がしでかしたこと」という形にしてしまい、大学院教育の欠陥を誤魔化し保身を図ろうとしているようにも思えるが、撤回日付は1月13日になっているので、手記出版がきっかけという訳ではなさそうだ。ということは、博士号取り消しに不満を表明していた小保方さんを完全に潰そうとしたら、小保方さんに先手を取られていたと見た方が良いのかも知れない。

 全面戦争の構えにも見えるが、小保方さんはこれを相手にする必要はない。論文全体の責任はラストオーサーが負うべきものであり、瑕疵がある論文を出した責任はラストオーサーの岡野氏にある。小保方さんについては、手記を出している時点で既に彼女は日本の科学コミュニティとは決別しているわけで、何も失うものがない状態で、論文が撤回されようがエラーバーの不自然さが不正と認定されようが、それは最早「些細なこと」でしかない。

 小保方さんの科学的正当性については、「あの日」の読者などによる世論の高まりを背景に、理研に対して不正調査の不当性を訴え裁判を起すという考えもあるが、裁判となると自分の科学的主張を裏付ける鑑定人などの証人が必要になってくる。日本中の科学者を敵に回したようなこの戦いで、小保方さんの味方をしてくれる「権威」が現れる可能性は限りなくゼロに近いだろう。理研を相手に民事訴訟を起しても「科学的正当性」を勝ち取るのはかなり難しい。

 結局、 小保方さんの名誉回復は、STAP騒動を刑事事件として捜査している警察に期待するしかないだろう。そして、日本の司法が政治圧力を受けずにちゃんと機能できたら、理研の犯罪を暴くことが出来るだろうし、そうしたら「STAP細胞はあります」の間接的な証明も可能だ。そして日本の生命科学コミュニティは世界中の信頼を失うことになり、完全に崩壊することになるだろう。引き返すチャンスはいくらでもあったのに立ち止まることをしなかったのは、狂気に蝕まれた権威主義者達の「馬鹿デカイ声」を世論と勘違いしてしまった誤算のせいなのかもしれない。

朝日新聞では『英科学誌「元データ確認できず」』とご希望通りの見出しで報道している。
http://www.asahi.com/articles/ASJ2V7SKDJ2VULBJ01V.html

この騒動は一体どんな結末を迎えることになるのだろうか。

 なんだか子供の喧嘩のようなタイトルである。

 実は、今週発売の週刊ポストに「ネットのバカ」というコラムが出ていて、そこで間抜けなことを吠えている姿を目にした率直な感想として「バカと言う奴がバカ」という言葉が頭に浮かんだのである。

 昨年末、「小保方晴子さんへの不正な報道を追及する有志の会」では、「小保方晴子さんの発見は真実だった!」という記事を出していたが、それが「デマ」であるというデマが流れたことがある。http://netgeek.biz/archives/60882
 netgeek
の「腹BLACK」という記者が書いた頭の悪い記事だが、このデマ記事に対して「有志の会」では既に反論がされている。

「デマというデマ(STAP細胞はあります!?)」
http://blog.livedoor.jp/obokata_file-stap/archives/1047532003.html

 ところがまたしてもiMuSC細胞論文が意味することを理解できない「バカ」なコラムニストが『小保方晴子氏を頑なに擁護する方々に「あのよ…」と嘆息』というタイトルで「腹BLACK」と同じバカなことを書いている。

 要するに、こいつらは、「科学雑誌『ネイチャー』の姉妹誌」で発表されたとされる論文を誤読しているのである。この論文はあくまでも、「STAP現象は存在する」という人による論を紹介したうえで、「でも誰も証明できていない」と述べている。それなのに、自動翻訳を使い得た情報を「STAP現象はあった」→「小保方さんは正しい」というすり替えを行ない、勝利宣言したのだ。

 あの記事が主張しているのはそんな話ではない。「有志の会」からも早速抗議声明が出されている。「腹BLACK
にしろこのコラムにしろ、要するに相手が主張してもいないことを批判する「藁人形論法」なのだ。相手が主張してもいないことをデッチ上げて批判をし、それを根拠に『小保方氏と付き合いたいか、或いは自己の理想像を投影しているか、「正義ごっこ」に酔いしれているだけである。』と罵るのは、明白なる名誉毀損である。完全にアウトである。小保方さんがどれだけ名誉毀損をされ続けていても無抵抗でいたために、感覚が麻痺してしまっているのだろうか。

 「有志の会」の設立趣旨のページには「必要があれば、法的手段も行使します。」 という宣言もある。この先どういう展開になるのか見ものである。双方向媒体であるネットメディアに対してネット上での反論を受けていながら、同じ念仏を今度は一方通行媒体である週刊誌に書くとは、まったくバカにつけるクスリはないのである

 小保方晴子氏の手記「あの日」が出版されてから、社会の反響も大きく増刷を重ねているようだが、アマゾンのレビューを見ると「批判的レビュー」の異常な多さがまず目を惹く。しかし、その多くが実際に本を読むことなく、ただただ小保方氏の人格を非難する言葉が並んだものが殆どだ。発売直後から1週間程の間トップレビューとして表示されていたものは、山口大学医学部講師の肩書きを持つ研究者のものだったが、本を読むことなく書かれたもので、本の内容に無関係な人格攻撃の言葉が並んだ異常なものだった。これは今は削除されている。
 読んでもいない本のレビューなど「不正論文」そのものだが、現在のトップレビューも、タイトルを「異常な本です」としながら、本の内容には一切触れておらず、本を読まずに書かれたものと思われる。文面から「プロの科学者」のようで、アマゾンカスタマーレビューではそのような科学者達の不正なレビューをたくさん見ることが出来る。しかし、本の内容について一切書いていないレビューに対して「参考になった」としている人達の多さには驚きを禁じえない。

 ところで、女性セブン2016218日号に『故笹井芳樹氏の妻 遺書の真意「小保方氏に伝わっていない」』という記事が出たが、あまりに酷い内容に空いた口が塞がらなくなってしまった。記事冒頭にある「読みません」や文末の遺書に関する「辞めなさいという意味なんです」という奥さんの言葉は恐らく本当だろうと思われるが、その間を繋ぐ文章があまりにも出鱈目すぎて「真実を歪めた」記事となっている。

 問題の箇所を引用する。
http://news.infoseek.co.jp/article/postseven_382675/?p=1
 同年49日、小保方氏は会見して論文の不備を涙ながらに詫びたが、「STAP細胞はあります」の言葉通り、研究結果の真実性だけは譲らなかった。
 「それは主人も同じでした。一緒に仕事もしてきて、自分でも顕微鏡で見ていましたから。当時は大変な時期だったので、彼女も頭が回らなかったのでしょう。あくまでSTAP現象を表す蛍光発色を確認しただけなのに“200回は出来た”なんて言って、誤解を招きましたよね。でも、主人は言うんです。“発色がある以上、まだ可能性はあるんだ”って。あの頃は小保方さんを信じてあげたいという気持ちが勝っていた」(A子さん)
 翌週には笹井氏も会見し、「STAP細胞だと考えないと説明がつかないデータがある」と小保方氏を擁護した。
 しかし会見後まもなく、彼女のずさんな実験ノートや、早稲田大学大学院時代の博士論文でのコピペ、写真盗用が発覚。ネイチャー論文上でSTAP現象が確認されたとするマウスが現実には違うマウスだったことも明らかになり、笹井氏の心は折れた。
 「“これはもう無理だ”って。論文を撤回するしかないと言っていました。あれだけの物的証拠を前にして、小保方さん、そしてSTAP現象自体に対する信頼が失われてしまったんです。彼女は科学者としての基礎的な教育を受けてこなかった。それは否定できないことだと思うんです。データの取り扱いとかプロセスの管理とか、“彼女はあまりにも問題がありすぎる”って、主人の失望は深かった」(A子さん)
 調査委員会が立ち上がり、笹井氏にも連日の聞き取りが行われた。A子さんの話に基づけば、当時、彼はすでに科学者としての小保方氏を見限っていたことになる。201485日、笹井氏は理研の研究棟で自殺した。

 この記事を素直に読めば、小保方氏に対する失望感が自殺の大きな要因であったように読めてしまう。ところが、実はこの記事の時系列は滅茶苦茶になっていて、それぞれの発言のタイミングが全体の経緯と違う場面で挿入されている。これを実際の時系列に並べ替えるとこうなる。

 調査委員会が立ち上がり、笹井氏にも連日の聞き取りが行われた。その前後に彼女のずさんな実験ノートや、早稲田大学大学院時代の博士論文でのコピペ、写真盗用が発覚。
 「“これはもう無理だ”って。論文を撤回するしかないと言っていました。あれだけの物的証拠を前にして、小保方さん、そしてSTAP現象自体に対する信頼が失われてしまったんです。彼女は科学者としての基礎的な教育を受けてこなかった。それは否定できないことだと思うんです。データの取り扱いとかプロセスの管理とか、“彼女はあまりにも問題がありすぎる”って、主人の失望は深かった」(A子さん)
(その後の41日、理研による小保方氏の不正認定が発表され、それを不服とする小保方氏より「不服申し立てに関する記者会見」が49日に開かれた。)
 同年49日、小保方氏は会見して論文の不備を涙ながらに詫びたが、「STAP細胞はあります」の言葉通り、研究結果の真実性だけは譲らなかった。
 「それは主人も同じでした。一緒に仕事もしてきて、自分でも顕微鏡で見ていましたから。当時は大変な時期だったので、彼女も頭が回らなかったのでしょう。あくまでSTAP現象を表す蛍光発色を確認しただけなのに“200回は出来た”なんて言って、誤解を招きましたよね。でも、主人は言うんです。“発色がある以上、まだ可能性はあるんだ”って。あの頃は小保方さんを信じてあげたいという気持ちが勝っていた」(A子さん)
 翌週には笹井氏も会見し、「STAP細胞だと考えないと説明がつかないデータがある」と小保方氏を擁護した。
 しかし、6月には若山氏が「小保方氏から戻って来た細胞は若山研にいないマウス」と記者会見で発表し、小保方氏も論文撤回に同意することとなった。(論文撤回後にこの発表は間違いだったと訂正されるも、報道はされなかった)
 連日の週刊誌などからのバッシング報道が続き、「マスコミなどからの不当なバッシングに疲れた」という遺書を残して、201485日、笹井氏は理研の研究棟で自殺した。

 同じ事実を順番を入れ替えて並べることによって、まったく違う印象に仕上げていたことが分かる。これでは、文末の言葉もどういうニュアンスで発せられた言葉なのか分かったものではない。
 STAP報道ではこういった出鱈目な報道が蔓延していた。事実関係を並べ替えて「真実を歪めた」記事を書く週刊誌報道は、今に始まったことではないが、情報の切り貼りをして事実関係を捻じ曲げ、故人や未亡人の発言までも「バッシングに利用」する報道はあまりにも卑劣で、こうした記事には吐き気さえ覚えてしまう。
 確かに奥さんも騒動の原因となった小保方氏を恨んでいる部分もあるだろう。言葉の端にやりきれなさのようなものは感じられる。しかし、記事で匂わされているのは「憎しみ」とも取れる感情であり、そのような印象操作で「対立構造」を作り出そうとする記者の下劣さには怒りを覚える。

 自分達の正義が間違っていたことを認めたくない者達の、断末魔の叫びはまだ続いている。



※追記
前にアマゾンカスタマーレビューを見た時は、批判的レビューの方が圧倒的に多かったのだが、今では肯定的レビューの方が多くなっているようだ。最初に、読んでもいない者達がワッと押し寄せ、手記の内容に触れないバッシングレビューで溢れかえり、次第に読み終わった人達のレビューが増えて行ったということだろう。今の時点でアマゾンカスタマーレビューを見たら、冒頭に書いた『「批判的レビュー」の異常な多さがまず目を惹く』がピンと来ないかもしれない。

岡山大学には、岡山大学病院を「地域医療連携推進法人」化し地域医療ネットワークを構築する「岡山大学メディカルセンター」構想があるらしい。http://mainichi.jp/articles/20151211/ddl/k33/040/554000c

岡山大学
の不正対応の問題は構図的には理研とそっくりだ。
「特定国立研究開発法人」のためにSTAP細胞論文の不正問題を大急ぎでテキトーに処理してお茶を濁そうとした理研では、「正義の有志」が立ち上がり、アカデミアからは「不正の実態を明らかにせよ!」と「声明」まで出して大騒ぎをしたが、「地域医療連携推進法人」のために不正問題を揉み消そうとした岡山大学では、「ふたりの教授」が立ち上がったものの、アカデミアからは無視され大学からは解雇されてしまった。

構図としてまるで瓜二つなのに、アカデミアもマスコミも正反対の反応になっている。まあ、マスコミが「権威のお言葉」の拡声器でしかないことは、STAP騒動でも明らかだったし、片瀬久美子氏のツイートでも裏付けられてはいるのだが。また、今月3日に毎日新聞が記事にした「不正調査の問題点」は細かい話でしかなく、岡山大学の問題は近視眼的な科学記者よりも社会部記者が扱った方が良い問題だろう。
片瀬氏の場合はSTAPの時と同じスタンスで行動に一貫性があるので、近視眼なりに信念を貫いていただければ良いのだが、某男性ライターのようにiMuSC細胞論文が意味することについて自分の頭で考えることもなく、著名な科学者のネット証言を継ぎ接ぎしたような「権威のお言葉の受け売り」しか出来ない中途半端な科学ジャーナリストの存在価値はやっぱりないだろう。不正告発者が解雇されても無視し続けている「学会の偉い先生」達の存在も。日本のアカデミアと科学報道は一蓮托生で壊れている。

STAP問題では『日本を代表する研究機関である理研で起きた前代未聞の研究不正の解明にあたり、理研内で真相と科学的真実の解明のため勇気ある行動をとっている研究者が複数名いることは、理研にとって大きな救いである。』とまで褒め称えた理研改革委員会の先生達は、いまどうしてるのだろうか。
STAP騒動の際、理研は自主的に不正調査に乗り出した有志達の研究環境を破壊するような不当なことは全くやっていなかったと思われる。逆にCDB解体を提言し、彼らの研究環境を破壊しようとしたのは国立大学の教授達で構成されていた理研改革委員会の方だ。
一方、岡山大学では不正調査に乗り出したふたりの教授達の研究環境は完全に破壊されまった。STAP騒動であれだけ騒いだ人達は、森山・榎本両教授の「勇気ある行動」に対して見て見ぬふりを続けている。というよりも、両教授の「真相と科学的真実の解明のための勇気ある行動」は、国立大学法人にとっては邪魔臭いだけの存在なのかも知れない。


今回の問題がここまで拗れたのは、STAP騒動で不正論文=研究犯罪というイメージで大変なバッシングが起きたことも要因のひとつなのかも知れない。森山教授らのスクリーニングで発覚した細かい疑義に対して、指摘された側が不正批判の恐ろしさに完全否定で逃げようとした的な何かがあったのかも知れない。

STAP
騒動の際に、不正論文=研究犯罪的な世間のイメージを煽って炎上させたのは、サイエンスライター片瀬久美子氏だったり、科学雑誌「日経サイエンス」編集部の古田彩氏だったり、中山敬一氏、大隅典子氏、近藤滋氏ら日本分子生物学会理事達だったりする。なんせ「詐欺師の持ってきたデータ」呼ばわりなのだから。
石井調査委員会の記者会見後しばらく私は「科学語は正しく日本語に翻訳されなければならない」という主張をしていた。石井調査委員会の不正認定で使用された「捏造」と「改竄」という言葉が、調査委員会から具体的内容を説明された行為に対する日本語として正しくないからだ。論文の体裁上の問題と研究犯罪としての不正問題を分けることなく「不正は不正」として同じ扱いをされた結果、2014年4月1日の理研の公式発表で小保方晴子氏は「捏造犯」とされてしまった。

科学者達が批判するマスコミは、NHK藤原淳登記者だったり毎日新聞須田桃子記者だったりという科学専門記者が「権威のお言葉の拡声器」の役割を果たしているに過ぎない。更に陰からリークしまくる放火魔までいれば尚のことだ。権威のお言葉によってSTAP騒動の狂乱が巻き起こり、大変なバッシングを引き起こしてしまったのだ。そして、日本分子生物学会理事ら生命科学の専門家達は、業界の清廉を装うために小保方氏の研究成果すべてを捏造の産物と決めつけ、故笹井芳樹博士が「STAP現象を前提としないと説明できないデータがある」と言い、理研内外で予断のない検証をすべき「合理性の高い仮説」であると訴えたSTAP細胞研究を叩き潰してしまった。



STAP細胞論文に対する理研の拙速な不正対応が引き起こした悲劇を見て、私はこういった不正問題の対策には「第三者機関の設置」が急務だと安易に考えていたのだが、それは即ち「大学の自治」を放棄することだと指摘されて、言われてみればそうだなと気付いた。しかし、岡山大学のような事態を招かないためにも、大学の自治など放棄して不正問題に対応する公的機関を設置する必要はありそうだ。ただしその場合、その運営資金はどこから出るかと言えば、科学予算の枠内なので「アカデミアの人たちに配られるはずだった研究費を削って捻り出す」ことになる。当然、公的機関を設置するとなれば不正まみれの生命科学系の予算を削って捻出するのが筋だろう。科学予算とは別枠で公正取引委員会みたいなのをという考えは図々しい。基本的に業界内で処理すべき問題なのだから。

結局、理研にしろ岡山大学にしろ、こうした事態になってしまっているのは「学者さんには統治能力がない」ことが主な原因ではないかとやはり思ってしまう。理研と岡山大の問題の教訓としては「科学者に政治的な力を持たせてはいけない」ということだろう。理研や岡山大学で
ガバナンスが機能せず学問の自由が脅かされているのは理系学者が権力を持ったせいだと私は思う。博士論文の不正問題が指摘された早稲田のように、学長が法学系ならこんな事態になる訳がない。
ちなみに、再生医療で最先端を目指すハーバード幹細胞研究所の所長は、学者さんではなくMBAを取得しているビジネスマンだ。http://hsci.harvard.edu/people/brock-reeve-mphil-mba

こういった流れの末に、日本の科学を取り巻く環境は、学生や研究者が落ち着いて研究に専念することが出来ない状況になって来ているように思えるが、これは結局、学界の偉い先生達が自分で自分の首を絞めてしまったことなのだ。STAP騒動で生命科学分野の構造的な問題が表面化してしまった今となっては、本気で研究の道に進みたい若者にとって、日本のアカデミアは自分の将来を賭けたいとはとても思えるような所ではない。研究者を目指す頭の良い若者達が選ぶ進路は日本ではないのだろう。

森山・榎本両教授に対する岡山
大学の仕打ちに今さらになって「なんとかしないといけない」と声を挙げている大学の先生達は、今まさに研究環境を奪われている人達を研究室ごと自分の大学で引き受ける位のことをやれば良いのにと私は思う。「裁判所に任せるしかないのか?」などと悠長なことを言ってないで。

岡山大学で研究不正を告発した教授ふたりが解雇された問題が、いまネット上で話題になっている。

この問題は、20142月に週刊誌で報道されたことに端を発して、STAP騒動真っ只中に起こっていた問題で、完全にSTAP騒動の狂乱の陰に隠れてしまっていた上、20149月には批判サイトが立ち上がっているものの、かなり偏った言い分のため世論の賛同を得ることも難しく、告発者の救済に資することはないまま現在に至っている。
サイエンスライターの片瀬久美子氏は、昨年の後半からこの問題を取り上げ、その流れを受けて研究者の中からも岡山大学の対応を問題視する記事も見られるようになった。

「岡山大学の問題は、全国の大学が抱えている問題か?」2015/09/21
http://blog.livedoor.jp/pyridoxal_phosphate/archives/43635210.html
「岡山大学の良識を問う 」2015/12/07
http://blog.livedoor.jp/pyridoxal_phosphate/archives/49692159.html

しかし、STAP問題ではあれほど大騒ぎしたマスコミや科学界からはこれといった声も挙がらないまま、昨年末にはとうとう不正告発者が解雇されるという事態にまで発展してしまった。
森山・榎本両教授の解雇が決定した今年になってから、1月3日には毎日新聞が不正調査の問題点を指摘する記事を出したが、今頃になって言い出しても手遅れ感しか感じない。112日には、告発者の森山教授と、解雇を発表した岡山大学が同じ日に記者会見を開き、NHK岡山放送局毎日新聞などが報道したが、STAP報道ではリークというエサを貰ってスクープ報道しまくっていたマスコミも、取材対象が積極的にエサを撒いてくれなければ何も報道できないという取材力のなさを見た思いがする。(いま確認したらNHKはリンク切れで記事が見つからない)


『半年前、ある記者に岡山大学の件を記事にできないか相談した時、「STAPの時の様に主要な大学の先生方が問題視する声を上げてないから、記事にするのは難しいですね」と言われてスルーされました。』
https://twitter.com/kumikokatase/status/686048913011286019

これは110日の片瀬久美子氏のツイートだが、マスコミがこういった問題を記事にするには「主要な大学の先生が問題視」しているかどうかが判断基準のようだ。「権威のお言葉」がなければマスコミ自身では判断できないということらしい。そして、STAP問題ではあれだけ大騒ぎした中山敬一氏も大隅典子氏も近藤滋氏も、不正告発者が解雇されてしまう事態になった岡山大学の問題は「問題視していない」ということになるのだろう。アカデミアもジャーナリズムもなにも機能してないではないか。

NHKの記事削除も理由が気になるところだ。確か大学側に大きな問題があるという印象を与えるものだったと記憶しているが、誤報だったのか書き方が誘導的だと揉み消されたのか。ミスリードも駄目だが、理由も告げずに削除して「なかったこと」にするのも問題だろう。NHK科学文化部のツイッター・ブログでも不正告発者が解雇され大学を提訴している件について一切触れていない。両者の言い分の食い違いについて事実確認が出来ないため、迂闊なことが言えないということなのかもしれないが、記者会見まで開いて公表されている「不正告発者が解雇され大学を提訴しているという事実」さえ報道出来ないとは、マスコミの無能さもここまで酷いとは思わなかった。

ところで、問題の発端となった「週刊ポスト」の記事を書いた伊藤博敏記者は、経済事件を得意としているフリージャーナリストのようで、医療やアカデミアとは縁遠い人のように見える。森山教授とこの記者がどういう形で繋がったのか不明だが、学問的な正義でもなく、学内権力闘争の問題でもない、別の理由から「不正告発」をしようとした勢力がいて引き合わせたのではないかという気もする。扇情的な支援から受ける印象でしかないが、森山教授を神輿に担いだ人の中に、不純な動機を持つ人があるようにも感じる。
問題がここまで拗れてしまったのは、この辺のやり方に問題があったからなのかも知れない。

いずれにせよ、不正告発が原因で研究環境を奪われてしまった森山・榎本両教授と学生達は、いままさに大変困難な状況下に置かれている。不正告発者が解雇される事態に至るまで、アカデミアは知らん顔をし続けていた。いまさら『研究不正の指摘を理由に大学を解雇されるのであれば、誰も不正の摘発はできなくなる。なんとかしないといけない』と言われても鼻白むばかりだ。
https://twitter.com/turingpattern/status/687129917507506176

東京オリンピックのエンブレムが、盗作疑惑でネットのお祭り騒ぎの末に佐野研二郎氏のデザインが使用中止となった問題で、この騒ぎがSTAP問題と同じだという声を見かけるが、キャラの立つ個人がマスコミとネットイナゴの餌食になっている点では同じだが、構図として両者はかなり違う。

エンブレム問題はマスコミとネットイナゴの襲来という「良くあるパターン」に対して、危機管理の甘い組織委員会の対応と、業界が佐野氏を守ろうとしたことで火に油を注いだ。デザインというのは「イメージ産業」であるのに、イメージ的に大衆から拒絶されてしまったものを、理屈で(しかも「素人には分からない」的な上から目線で)返そうとした組織委員会の愚かさは、理研の逃げ方とは対照的だ。


STAP
問題はマスコミとネットイナゴの襲来という「良くあるパターン」に対して、危機管理の甘い理研の対応があっただけでなく、業界がマスコミとネットイナゴと一体化して襲い掛かるという、他に類を見ない異常さがあった。科学の問題でありながら「善玉・悪玉」的なイメージが横行し、マスコミを利用した理研の逃げ方にも狡猾さが光っていて、大会組織委員会のダメっぷりとは対照的だ。

佐野氏はいま世間からの猛烈なバッシングを受け大変な状況にあるが、業界から見捨てられてはいないようなので、自殺といった最悪の事態にまで至ることはないだろう。STAP騒動で死者まで出てしまったのは、マスコミとネットイナゴと一緒になって、というより先頭に立って襲い掛かった専門家達の出鱈目さが最大の原因で、その時とは状況は大きく異なる。しかし、もしここで同業者で庇ってくれる人をなくして孤立無援になってしまったら笹井氏と同じことにもなりかねない。そんなことになってしまう前に、この騒動が治まることを願っている。デザイナー個人を責め立てても何一つ解決するものでもなく、もっと冷静に構造的な問題についての議論に立ち返ることが望まれる。

それにしても、感情に任せて思い込みで個人を追い詰める正義の恐ろしさに、大騒ぎしている人達はなぜ気付くことが出来ないのだろう。教育評論家の尾木直樹氏なども、しばしば自身のブログでニュースを賑わす「悪者」に焦点を当て、不確かな情報を基に思い込みで「悪者」を吊るし上げ非難するのを度々目にするが、こういう人がイジメ問題を語る様子は一体なんの冗談なのかと思ってしまう。ああいう風に感情に任せて正義の旗を振る者がいて、それに便乗して後ろで煽る者がいて、訳も分からず祭りに踊る者がいて。ネット社会における正義の暴走は誰にも止めることが出来ない恐ろしさがある。

 先週、東京高裁により裁判員判決が破棄された三鷹のストーカー殺人事件の審理差し戻しについては、是非ともテレビ報道で詳しく取り上げてもらいたい。この事件はストーカー被害相談当日に殺害されるという悲惨な事件で、警察の不手際も悔やまれる事件だった。そして更に今回の裁判での不手際。遺族のことを思うと本当に可哀想で仕方ない。差し戻しの意味についてはこちらに書いた。

 事件当時、テレビは被害者が女優を目指していたことを取り上げ大々的に報道してしまったために、実名報道をした後に詳細が明らかになったリベンジポルノの問題について報道を自粛せざるを得なくなってしまった。
 本来、リベンジポルノは社会問題として非常に報道価値の高いものであるにも関わらずテレビで報道できなかったのは、未成年の被害者の尊厳を損なうことに繋がるものだったからだろう。しかしそもそも、事件が起きたときにマスコミが被害者の実名を報道しなかったら、犯人がネットに上げた写真と被害者が結びつくこともなく、犯人の自供に基づき拡散する前に粛々と削除されていた可能性もある。つまり、リベンジポルノ自体が不発に終わった可能性があるのだ。被害者の画像拡散の責任は安易な実名報道にあると私は思っている。
 昨今のネット社会における被害者バッシングの酷さを思うと、事件被害者の実名報道は慎重であるべきだろう。特に被害者が女性の場合には、事件の詳細が分かるまでは実名は控えるべきではないだろうか。だが、その点に関しては過ぎたことで仕方ないとして、事件後明らかになったリベンジポルノについて蓋をしたまま被害者が美しく描かれ報じられることに反発する愚民たちによって、被害者はネット上では嬲り者にされた上に、酷い噂話で誹謗中傷の嵐に晒され、さらに遺族にも心無い言葉が浴びせかけられていた。
 このバッシングは安易な実名報道とテレビの過剰報道に責任があると言えるだろう。

 今回の裁判では一審で裁判員が出した判決に対して、裁判が正常な手続きでなかったために差し戻されたが、これは裁判員裁判制度にとっても相当の大問題だ。しかも、この差し戻し判決を、単純に「原判決の刑が重過ぎる」と受け取る市民も多いように感じる。この差し戻しは決してそういう意味ではないことをテレビはしっかり世間に伝えなくてはならない。この差し戻しは単純に量刑不当で差し戻されたのではなく、裁判が適正に行われれば無期懲役の判決に変わることもあり得る裁判だ。このままでは次に裁判員に選ばれる人達は、単に前の判決が重すぎたのだと思ってしまうかもしれない。

 こういったことの始末は、事件当時世間を煽ったテレビが自分達の責任でつけて欲しいと私は思う。テレビが正面からリベンジポルノのことを取り上げることによって、この事件とこの裁判の意味が世間に正しく伝わり、犯人が正しく法の裁きを受けられるようにしてもらいたい。これは量刑の軽重の問題ではない。この犯罪が正しく裁かれることがなければ被害者は浮かばれないだろう。被害者は殺されてもなお見知らぬ外道どもによって晒しものにされ、見知らぬ下衆どもよって嬲られ続け、見知らぬ愚民たちに中傷され、そしてさらに司法からも殺されかけている。
 テレビはこの全てを伝える義務があると私は思う。

 三鷹ストーカー殺人事件の審理が差し戻された。起訴状にないリベンジポルノが判決に過大に影響しているということのようだ。犯した罪に比べて裁判員判決が重過ぎるようなニュアンスを匂わせた新聞もある。しかしそれは違う。起訴されていないことを裁いているから差し戻されたのだ。

 前にも書いたが
、この事件は「殺人」「住居侵入」「銃刀法違反」で起訴されている。これはいったい何の事件の話なのかと思うような起訴内容だ。脅迫、強要、強姦、ストーカー行為、リベンジポルノ等の被害者が受けたありとあらゆる苦痛に対する罪がひとつも起訴状に書かれていないのだ。犯行の悪質性を象徴するリベンジポルノを裁くための罪状を立件しないまま、裁判の中では最重要点として立証して行くという検察のやり方が間違いなのだ。
 これは一審を裁いた裁判員が悪いのでも、裁判員判決を差し戻した高裁が悪いのでもない。被害実態とかけ離れた起訴状を書いた担当検事と、漫然とした公判前整理手続きを行った林正彦裁判長の怠慢がこういう結果を招いてしまったのだ。

 遺族は昨年12月の控訴審公判で「娘の画像は世界中に流れ、今も全部を削除することはできない」とする意見陳述を求めたが高裁はそれを認めなかった。なぜ認められないのかと言えば、遺族の訴えが起訴事実とは直接関係ないことだからだ。この審理差し戻しの意味は、「殺人」「住居侵入」「銃刀法違反」という被害実態とかけ離れた起訴状を書き、犯行の悪質性に正面から向き合うことの出来ない裁判にしてしまい、それに対して「なあなあ」の形で判決を下してはいけないということを高裁は明確に示したということだ。

 名誉毀損罪は『毀損された名誉が死者のものである場合には、その事実が客観的に虚偽のものでなければ処罰されない(刑法2302項)。』となっていて、検察は名誉毀損での立件は無理だと判断したのかもしれない。しかし『ただし、名誉毀損をした後、名誉を毀損された者が死亡した場合には、通常の名誉毀損罪として扱われ、当該事実が虚偽でなかったということのみでは免責されない』ことによって立件は可能だし、その解釈を巡って争うくらいの姿勢を見せなければ、この犯罪を正しく裁くことなど出来はしない。

 担当検事はこれをどう始末するつもりなのか。その責任は重い。被害者遺族にとって、大切な娘をこれ以上にないほど残酷な目に遭わせて殺した犯人を、法の下で正しく裁いてもらうために頼れるのは検察以外にないのに、この不手際は誰がどう始末をつけるのだろう。

 この事件は、ストカー被害相談当日に殺害されるという警察の不手際が悔やまれる悲惨な事件だ。そして今回の検察の不手際。返す返すも、司法に裏切られ続けている被害者と遺族が本当に可哀想でならない。


211日加筆修正

裁判について思ったことを書いたコメントをコピペします。
http://disktopaska.txt-nifty.com/aska/2014/08/22-67dd.html

併合罪の説明ありがとうございます。
私は刑法について詳しくはないのですが、刑法47条は罪に対する刑罰を有期刑とされたときに初めて意味を持つもので、殺人罪の法定刑は最高で死刑なので有期刑に限定することが無ければ併合罪には余り意味はないのではないでしょうか。
そして今回「有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」とされ有期刑が選択されたのは、起訴状にあった三点の罪についてのみ裁かれたからではないでしょうか。強姦や脅迫、強要、ストーカー行為、リベンジポルノ等の被害者が受けた苦痛に対する罪は、それ自体は裁かれることなく量刑判断の参考資料として採用され、裁判員はその悪質性を認めて併合罪を使った有期刑としての上限の判決を出したわけです。

しかしもしも、強姦や脅迫強要ストーカー行為、リベンジポルノ等も「罪」として裁かれていたならば、「有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」という判断そのものが違っていた可能性もあると思います。
法は起訴事実についてのみ刑罰を課すことになるのでこの事件は三点の罪についてのみ裁かれたわけで、それついて「有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」となっていて、もしすべての罪を俎上に上げこの犯罪に正面から向き合えば「有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」という判断はなかったかもしれません。
少なくとも「男女トラブルの殺人で被害者が1人」という紋切り型の判決文にはならなかったのではないでしょうか。

この裁判は控訴したとしても裁判員が出した一審判決より二審での判決が重くなることは考えにくいので、検察側は控訴しない方向で遺族を説得しているかもしれません。犯人もこれまでの言動から控訴しないことも考えられるのでこのまま確定してしまうかもしれません。
私はこの事件について、検察は被害の残酷さを考えて死刑を求刑しても良かったと思うし、判決においては劣悪な成育環境が原因で人格が歪んでしまった犯人に対して一定程度の同情を示して無期懲役の判決で決着して欲しかったと思っています。
この裁判は、被害者遺族の苦しみをさらに深めるようなとても後味の悪い裁判でした。

遺族は「死刑の恐怖と懲役のリスクは比べものにならない」と言っていますが、私は基本的には死刑制度反対なのですがこの事件について考えると、死刑は抑止力になるんじゃないかと思うようになりました。この犯人は自分のリスクも計算していて、自分の犯罪が死刑にはならないことが前提で犯行を計画しているように思われます。もしこの殺人が死刑になると思ったら犯人はこの犯行を計画していなかったでしょう。
報道される遺族のコメントから、裁判での遺族の歯痒さが伝わってきて胸を締め付けられる思いがしています。

 三鷹のストーカー殺人で犯人に対して懲役22年の一審判決が出た。
 「強固な殺意に基づく高い計画性が認められ、動機はあまりに身勝手で同情の余地はごく乏しい」「反省を深めているとは認められず、謝罪の言葉すらない」としながら「量刑の幅の上限付近に位置づけられる重いものだが、有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」として懲役22年の判決を言い渡した。

 この量刑について林正彦裁判長は「男女トラブルの殺人で被害者が1人の量刑の中ではほぼ上限に位置づけられるものといえる」として妥当性を強調した。恐らく裁判員に対しても「相場」についてこのような内容を説明したのだろう。


「男女トラブルの殺人で被害者が1人」

 用意周到な計画的犯行で、未成年の被害者に対して脅迫・強要を繰り返した挙句に殺害し、自分が殺した被害者を貶める目的で児童ポルノに該当する被害者の裸の画像を拡散させるという前代未聞の犯罪に対して、この紋切り型の量刑判断理由はあまりにひどすぎる。リベンジポルノとは、相手を貶めることによって自分が救われようとする自己中の極致とも言える行為である。そうした身勝手極まりない卑劣な行為を無視したかのようなこの判決理由には、被害の重大さをひどく軽く見られているようで遺族にとっては堪らない気持ちになるだろう。

 犯人は反省の気持ちはまったく湧いていないどころか、何か発言するたびに被害者遺族の感情を逆なでするような自己中心的で自分を美化した言葉を吐き出し続けている。
 もし犯人が本当に自分と向き合い反省し、被害者と両親に対する謝罪の気持ちを持つことが出来るのなら、遺族も少しは救われることもあるだろう。しかし、反省の気持ちも湧かない今の状況で「遺族に手紙を書きたい」などとした発言からも伺えるように、自己承認欲求だけが強く他者への共感能力がまったく欠如した人格が果たして矯正可能なのだろうか。

 もしもこの判決が確定したとして、遺族はこれからの人生をどのような思いで生きていくことになるだろうか。犯人の性格から、時機を見て自分の成育歴と被害者に対する思いなどを自分を盛大に美化して書いた獄中手記なども出しそうな気がしている。
 22年というのはちょうど両親の残りの人生の時間と同じくらいの長さにあたる。被害者の両親が80歳を迎え自分の人生が終わり近づいた頃、娘を殺した男が40代からの人生を再スタートすることになる。この現実を思ったとき、両親は正気を保って生きていけるのだろうか。22年は遺族を苦しめ続ける遺族にとっての刑期となってしまうのではないだろうか。


 そもそも上限の量刑というが、起訴内容が「殺人」「住居侵入」「銃刀法違反」の三点しかなかったというのも驚きで、脅迫、強要、強姦、名誉毀損等、被害者が受けたありとあらゆる苦痛をまるで無視したような起訴状を書いた検察官にも問題があるのではないだろうか。それに起訴内容にストーカー規制法に関する罪状が入っていないのは一体どういうことだ。ストーカー被害相談当日に殺害されたという事態に、裁判での審理が警察の不手際に及ぶことを避けるために検察が意図的に起訴内容から外したのではないか。

 もしもそうだったとしたら、司法に裏切られ続けた被害者と遺族が可哀想でならない。

東京都議会で質問に立った女性議員に「早く結婚した方がいいんじゃないか」という野次が飛び、その様子がYouTube動画でも公開されたり、報道でも大きく取り上げられて大きな波紋が起きている。
この野次が女性蔑視で相手を侮辱している発言であることは疑いようが無く、問題発言として暴言を受けた議員が抗議するのは当然のことだろう。しかし、野次を発した人物は名乗り出ることなく、議会も発言者を特定しない方向で収めようとしているため大きな批判が起きている。
野次を飛ばした人物は、公の場で人を侮辱する発言をしているわけで、その人物は暴言を謝罪するか自分の発言の正当性を述べるかする義務がある。「匿名による誹謗中傷」を認めるようなことでは、都議会は有権者の信頼を失うことになるだろう。

ところが今、ネット上ではこの女性議員の素行についてあれこれ取り沙汰されていて、野次られて当然のような雰囲気を醸し出してさえいる。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20140620-00036575/
最初の一行でこの筆者の品位の無さを感じて全部を読み進めるのに一苦労したが、そこで紹介された動画と筆者の感じ方を見て、野次を受けて議員が涙を流した理由が良く分かった。議員はこの記事に紹介されているようなこれまでの素行やらなんだかんだで色々言われることも多かったのだろう。
野次を浴びた質問の動画を見ると、女性議員として女性問題について議員なりに真剣に考えて質問していることが質問内容から伺える。議員は都議会での初めての一般質問だったとのこと。その初めての質問で、議員としての役割を果たしたいと自分が真剣に考えて練り上げた質問をしている最中に自分の人格を否定する発言をされてしまい、「お前の言うことなど価値は無い」とでも言うように議員としてのすべてを否定されたような無力感を感じたのではないだろうか。
その悔しさはいかばかりかと、改めて議員に対する同情の念を禁じえない。

「どの口が言うのか」
確かにその通りなのかもしれない。そして議員に貼られたレッテルを見れば「目立ちたがりのパフォーマンスで女性問題を利用しようとしている」ようにも見えるのかも知れない。山本一郎氏の記事を読み、改めて問題シーンの動画を見たとき、野次のトーンから発言者はそういう認識で議員を見ているのではないかと私は感じた。
しかし、議員に貼られたレッテルがなければ、外見的には「議員一年生が精一杯考えて練り上げた質問を議会にぶつけ、都民の役に立ちたいという思いを踏みにじられた」姿なのである。

議員がどのような決意で議会に臨んだのかは本人以外には分からない。
しかし私は「議員は都民の役に立ちたいという願いから都議会議員になり、議員になって初めての議会質問で自分が精一杯考えて練り上げた質問を議会にぶつけた」質問だったと思いたいしそう思っている。
それを踏みにじるような野次を飛ばした人物は正直に名乗り出て謝罪するか、もしくは自分の発言が正当だったと思うのなら正々堂々と反論を展開しなければならない。
「匿名による誹謗中傷」をしたまま頬被りでは、議員の資格などあろうはずがない。

犯罪者を罰するのはその罪に対してのみでなければならない。
歌手のASKAが覚せい剤所持で逮捕され、レコード会社がCDを出荷停止した上で回収していることが話題になっているが、犯罪事実と無関係な楽曲が影響されるのは道理にかなっていない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。罪が憎けりゃ人まで呪う。 そんな扇情的で非合理的な対応がまかり通る社会は恐ろしい。しかし、音楽業界の場合はイメージ商売なのでイメージダウンになるものは撤去するという判断は仕方ない面もあるだろう。
その少し前に、福岡県の小学校校長が覚せい剤所持で逮捕されるというショッキングなニュースがあった。そして、その校長は校歌の作曲者であったためにどう対応すべきか検討されたそうだ。

では、イメージ商売ではない学校教育の現場ではどう対応しなければならなかったか。

信頼していた校長が覚せい剤というとんでもない犯罪に手を染めた。
子供たちにどう説明して良いのかとても悩むと思う。昨日まで身近な「偉い人」だった校長先生が、それも教育熱心と思われていた校長先生が反社会的な悪いことをしたのだということをどう伝えれば良いのか非常に悩むところだろう。さらに、その校長が作曲した校歌の問題。
しかし、実はこれは子供たちの道徳教育の材料として格好の素材だったのではなかったか。
「犯罪者を罰するのはその罪に対してのみでなければならない。」
校歌について毅然とした姿勢で子供たちに「正義」とは何かを教える絶好のチャンスだったのではないか。

ところが関係者の話し合いでは「子どもたちに正しいことを教えるためにも不祥事を起こした人物の曲は変更する必要がある」という意見で全会一致したと言う。つまり「悪いことをした人が作ったものは使ってはいけません」と教えることが正しい教育だと言う。こんな差別的な価値観を植えつけられて子供たちは育っていくのか。

校歌を聴けばさまざまな受け止め方をする者が出てくることだろう。曲を聴けばその陰には校長がいてその犯した罪が付きまとうし、「犯罪者が作った曲を校歌にするなんて」という苦情を言ってくる親もいるだろう。あるいは、事件により校歌が注目されることで逆に作曲者としての栄誉を与えるような形になれば、それはそれで問題があるだろう。しかし、 そんな事情によって道理を曲げて正義を偽ることの方が、どれほど子供たちに悪影響を及ぼすか。

関係者は平穏な毎日を取り戻すために忌まわしい事件に関するものを消し去りたいのかもしれない。前代未聞の事件を起こした校長が存在した形跡を消したいのかもしれない。しかし、それは問題から逃げているだけだ。そうやって大人が逃げたせいで子供たちは正義を理解することが出来なくなるのだ。

ある作品の制作者がその作品とは無関係なところで罪を犯した時、その犯罪者が作ったものを廃棄することは非常に野蛮な行為だ。廃仏毀釈のようなことはすべきではない。
罪を犯した校長に対する懲戒の意味合いならば作曲者としての栄誉を剥奪すれば良いわけで、作者不詳とでもして作品そのものは残すべきだったのではないか。

それにしても、校歌の歌詞はそのままに曲だけ変えるというこの判断を「子どもたちに正しいことを教えるために」と言って憚らない教育関係者たちには絶望的な気持ちになる。

先日“宇宙膨張の決定的証拠”は誤りではないかというニュースがあった。
宇宙が膨張を続けているというのは科学的に通説となっているが、私は知らなかったがこれまでは宇宙膨張の仮説を裏付けるさまざまな証拠はあっても決定的証拠に欠けていたようだ。

地球は回っているという発見。宇宙は膨張しているという発見。
STAP細胞はこれらと同じような話で、小保方さんは細胞は刺激によって初期化されるという発見をしその実験を成功させてきた。理化学研究所はその実験結果に驚き、彼女を研究ユニットリーダーとして採用し研究成果を世間に公表する準備を始めた。
折りしも理研においては特定法人化の話が進んでいて、国民の理解を得るためにも華々しい研究成果を欲して功を焦っていたであろうことは否めない。小保方さんの説明にある、論文を急かされるプレッシャーを受けていたというのは嘘ではないだろう。
ところが、小保方さんは論文作成の仕方が杜撰だったために、STAP細胞の存在を証明する「決定的証拠」を取り間違えて研究成果を自分で証明することが出来なかった。

そしていま、細胞が初期化されるという発見自体が捏造であるかのように非難される中、笹井博士という権威ある科学者からSTAP細胞の存在は「有力な仮説」に戻ったとされている。そして、理研では仮説の提唱者で発見者である小保方さんを排除した形でSTAP細胞の検証実験が行われることになった。

私は、仮説の提唱者で現象の発見者である人を排除してその仮説を検証するのは、存在が証明出来なかった場合にはそれでも良いのかもしれないが、証明された場合にはどうしても手柄の横取りにしか思えない。理研が仮説を放棄できないでいる時点で、仮説の提唱者で現象の発見者である小保方さんが排除されるのは道理に合わないのではないか。

科学コミュニティにおいては証明した人が偉いのだろうが、一番偉いのは現象の存在を発見しその実験を成功させた人ではないかと私は思う。しかし、小保方さんは今や科学コミュニティにおいては科学者失格の烙印を押され研究を続ける道は閉ざされてしまい、世間からは稀代のペテン師のように扱われ、追い詰められてしまっている。
科学コミュニティの秩序を守る上では、存在の証明に失敗した研究者を排除した形で存在を証明することは大切なのかもしれないが、社会にとって重要なのは「存在する」ことそれ自体であって、証明したことの手柄など二の次三の次でしかない。

今回の経緯は、科学コミュニティが一種の治外法権のような状態になってしまっているために、なにか異次元の社会構造の中で事態が繰り広げられている印象を持ってしまう。
この問題がこういう経緯を辿った原因はどこにあるのかと言えば、科学コミュニティという法治国家のそれとは異次元の社会構造の中にあって、捏造疑惑の被疑者の立場にありながらその中から検察官を選び当の検察官が有罪判決を下すという自作自演とも言える統治システムを社会に晒した、理化学研究所という組織の問題であることは明らかだが、その他にも行き過ぎた権威主義が罷り通る科学コミュニティの異常性と、報道する側までもが権威主義に囚われ絡め取られたマスメディアの無能さにあるのではないだろうか。

理研はSTAP現象が有力な仮説だと言うのなら、仮説の証明が少しでも前に進めるように、裁判などで無駄な時間を費やさずに済むように、小保方さんを参加させた実証実験を行うべきだろう。

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