よもや真話

気になるニュースのことなどをダラダラと

2014年05月

犯罪者を罰するのはその罪に対してのみでなければならない。
歌手のASKAが覚せい剤所持で逮捕され、レコード会社がCDを出荷停止した上で回収していることが話題になっているが、犯罪事実と無関係な楽曲が影響されるのは道理にかなっていない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。罪が憎けりゃ人まで呪う。 そんな扇情的で非合理的な対応がまかり通る社会は恐ろしい。しかし、音楽業界の場合はイメージ商売なのでイメージダウンになるものは撤去するという判断は仕方ない面もあるだろう。
その少し前に、福岡県の小学校校長が覚せい剤所持で逮捕されるというショッキングなニュースがあった。そして、その校長は校歌の作曲者であったためにどう対応すべきか検討されたそうだ。

では、イメージ商売ではない学校教育の現場ではどう対応しなければならなかったか。

信頼していた校長が覚せい剤というとんでもない犯罪に手を染めた。
子供たちにどう説明して良いのかとても悩むと思う。昨日まで身近な「偉い人」だった校長先生が、それも教育熱心と思われていた校長先生が反社会的な悪いことをしたのだということをどう伝えれば良いのか非常に悩むところだろう。さらに、その校長が作曲した校歌の問題。
しかし、実はこれは子供たちの道徳教育の材料として格好の素材だったのではなかったか。
「犯罪者を罰するのはその罪に対してのみでなければならない。」
校歌について毅然とした姿勢で子供たちに「正義」とは何かを教える絶好のチャンスだったのではないか。

ところが関係者の話し合いでは「子どもたちに正しいことを教えるためにも不祥事を起こした人物の曲は変更する必要がある」という意見で全会一致したと言う。つまり「悪いことをした人が作ったものは使ってはいけません」と教えることが正しい教育だと言う。こんな差別的な価値観を植えつけられて子供たちは育っていくのか。

校歌を聴けばさまざまな受け止め方をする者が出てくることだろう。曲を聴けばその陰には校長がいてその犯した罪が付きまとうし、「犯罪者が作った曲を校歌にするなんて」という苦情を言ってくる親もいるだろう。あるいは、事件により校歌が注目されることで逆に作曲者としての栄誉を与えるような形になれば、それはそれで問題があるだろう。しかし、 そんな事情によって道理を曲げて正義を偽ることの方が、どれほど子供たちに悪影響を及ぼすか。

関係者は平穏な毎日を取り戻すために忌まわしい事件に関するものを消し去りたいのかもしれない。前代未聞の事件を起こした校長が存在した形跡を消したいのかもしれない。しかし、それは問題から逃げているだけだ。そうやって大人が逃げたせいで子供たちは正義を理解することが出来なくなるのだ。

ある作品の制作者がその作品とは無関係なところで罪を犯した時、その犯罪者が作ったものを廃棄することは非常に野蛮な行為だ。廃仏毀釈のようなことはすべきではない。
罪を犯した校長に対する懲戒の意味合いならば作曲者としての栄誉を剥奪すれば良いわけで、作者不詳とでもして作品そのものは残すべきだったのではないか。

それにしても、校歌の歌詞はそのままに曲だけ変えるというこの判断を「子どもたちに正しいことを教えるために」と言って憚らない教育関係者たちには絶望的な気持ちになる。

先日“宇宙膨張の決定的証拠”は誤りではないかというニュースがあった。
宇宙が膨張を続けているというのは科学的に通説となっているが、私は知らなかったがこれまでは宇宙膨張の仮説を裏付けるさまざまな証拠はあっても決定的証拠に欠けていたようだ。

地球は回っているという発見。宇宙は膨張しているという発見。
STAP細胞はこれらと同じような話で、小保方さんは細胞は刺激によって初期化されるという発見をしその実験を成功させてきた。理化学研究所はその実験結果に驚き、彼女を研究ユニットリーダーとして採用し研究成果を世間に公表する準備を始めた。
折りしも理研においては特定法人化の話が進んでいて、国民の理解を得るためにも華々しい研究成果を欲して功を焦っていたであろうことは否めない。小保方さんの説明にある、論文を急かされるプレッシャーを受けていたというのは嘘ではないだろう。
ところが、小保方さんは論文作成の仕方が杜撰だったために、STAP細胞の存在を証明する「決定的証拠」を取り間違えて研究成果を自分で証明することが出来なかった。

そしていま、細胞が初期化されるという発見自体が捏造であるかのように非難される中、笹井博士という権威ある科学者からSTAP細胞の存在は「有力な仮説」に戻ったとされている。そして、理研では仮説の提唱者で発見者である小保方さんを排除した形でSTAP細胞の検証実験が行われることになった。

私は、仮説の提唱者で現象の発見者である人を排除してその仮説を検証するのは、存在が証明出来なかった場合にはそれでも良いのかもしれないが、証明された場合にはどうしても手柄の横取りにしか思えない。理研が仮説を放棄できないでいる時点で、仮説の提唱者で現象の発見者である小保方さんが排除されるのは道理に合わないのではないか。

科学コミュニティにおいては証明した人が偉いのだろうが、一番偉いのは現象の存在を発見しその実験を成功させた人ではないかと私は思う。しかし、小保方さんは今や科学コミュニティにおいては科学者失格の烙印を押され研究を続ける道は閉ざされてしまい、世間からは稀代のペテン師のように扱われ、追い詰められてしまっている。
科学コミュニティの秩序を守る上では、存在の証明に失敗した研究者を排除した形で存在を証明することは大切なのかもしれないが、社会にとって重要なのは「存在する」ことそれ自体であって、証明したことの手柄など二の次三の次でしかない。

今回の経緯は、科学コミュニティが一種の治外法権のような状態になってしまっているために、なにか異次元の社会構造の中で事態が繰り広げられている印象を持ってしまう。
この問題がこういう経緯を辿った原因はどこにあるのかと言えば、科学コミュニティという法治国家のそれとは異次元の社会構造の中にあって、捏造疑惑の被疑者の立場にありながらその中から検察官を選び当の検察官が有罪判決を下すという自作自演とも言える統治システムを社会に晒した、理化学研究所という組織の問題であることは明らかだが、その他にも行き過ぎた権威主義が罷り通る科学コミュニティの異常性と、報道する側までもが権威主義に囚われ絡め取られたマスメディアの無能さにあるのではないだろうか。

理研はSTAP現象が有力な仮説だと言うのなら、仮説の証明が少しでも前に進めるように、裁判などで無駄な時間を費やさずに済むように、小保方さんを参加させた実証実験を行うべきだろう。

めちゃイケ問題でなんやかんや書いていたのもののひとつをコピペ。
http://blogos.com/discussion/2014-05-09/satire/


パロディは人格ではなく作品に対して行うものであり、芸能人などの有名人がパロディの対象となるのは、自身がそのキャラクターを作品として商品化しているからであり、その「作品」に対しての笑いがパロディです。
その基本的なことをバラエティ番組の制作者が理解していないから、今回のような間違いをたびたび起こすのです。テレビ関係者が「こんなことでいちいち抗議を受けていたらたまらない」と話していたという記事を見かけましたが、明確なラインを理解していないからこんなモラルに欠けた発言をするのでしょう。「阿呆方」もひどいですが問題はそこではありません。

芸能人などは自分のキャラクターが商売道具であり、即ちそれはひとつの作品でありパロディの対象となりますが、小保方氏のようなひとりの研究者をその仕事とは関係ないところでキャラクターを勝手に作品化し、さらに勝手にモノマネして笑うのはパロディの要件を満たしておらず、明らかに人格権の侵害です。
だから、風刺やパロディの要件を満たしていない人たちを笑いの対象とすることは、本人の同意がなければ小保方氏に限らず絶対にやってはいけないのです。タレントが「本人に実際に見てもらったらきっと笑ってもらえた」と言っていますが、事後承諾で良いと考えるのは笑いを仕事にする者の態度として最悪だと思います。
本当の風刺やパロディなら本人の承諾など不要であり、対象となった人が不快に感じるかどうかは関係ありません。逆に風刺やパロディの要件を満たさないものは本人の了解は不可欠でその場合は事後承諾では駄目なのです。
良く「ギリギリの笑い」と言いますが、ギリギリのラインは人格権とは別次元の下品だとかの価値観についてのもので、対象として良いか悪いかにギリギリはありません。

NHKのコント番組『LIFE!~人生に捧げるコント~』のコントのひとつ『NHKなんで』は「お堅いNHK」をデフォルメしたコントで私も大好きなコントなのだが、先日放送されたものは特に秀逸で、それは国会で「NHKのバラエティーが低俗」と追及した議員がいたことを意識して作られており、そんな「国会の追及にコントで応戦」したNHKに対し、「これこそ攻めの笑い!」とたくさんの人がその内容の深さを賞賛している。しかし、それも褒め過ぎると「笑いってそんなに高尚なもんなのか?」といった反発を生むことにもなるだろう。

深い部分なんてなんの興味もなく単に面白いかどうかで選ぶのが大衆というもの。見る方にしてみれば余計なことをなんも考えずに大笑い出来れば十分だし、LIFE!のコントで言えばイカ大王やゲスニックマガジン、宇宙人総理などの深読みしないで単純に笑える笑いの方が、より素直に楽しめてよりたくさんの人の共感も得られるだろう。

そういう意味で例えば民放の番組制作者が「知的な笑いなどクソくらえ」と、より大衆的な笑いを追求するのは良いことなのだが、その際に大事なことは裏方の制作者には知性は不可欠なのだということだ。番組予告で騒動になり放送を取りやめたフジテレビのめちゃイケ「阿呆方さん」のような、知性に欠ける制作スタッフの下劣さをそのまま表したような質の悪い笑いを作っておいて「こんなことでいちいち抗議を受けていてはたまらない」と言うような番組制作者のモラルの低さは大いに批判されるべきだろう。

笑いを楽しむ視聴者には別に知性は必要ないが、提供する側の制作者には知性とモラルは必要不可欠で、低俗番組と呼ばれるような番組を制作するにもタレントを使う制作スタッフには知性とモラルはなくてはならない。ところがそのどちらもスタッフに欠けているのがめちゃイケやロンハーと言ったバラエティ番組だ。

キャラクターの面白さで笑いを取るのは笑いの王道だが、制作者が捻り出して作り上げたキャラクターで笑いを生むLIFEのスタッフと、タレントのキャラクター頼みで番組制作をしてきたバラエティ番組のスタッフの「笑い」に対する意識の違いは歴然としている。

めちゃイケやロンハースタッフの笑いに対する考え方の安易さが、キャラクターはタダで拾えるものといったいい加減な扱いをしてしまい、今回のように「小保方さん」という際立つキャラクターをお手軽に拾って勝手に商品化しパロディにするという間違いを犯す元となっている。
そして抗議を受けてもなお「トーンを下げるのでやらせて欲しい」と言ってきたとか。守ったら負けの精神のつもりか知らないが、根本的な間違いを分かっていないからこんな図々しいことが言えるのだろう。

笑いが高尚である必要はないが、笑いを作る者に知性がないのは致命的だろう。

長谷川豊氏のブログにコメントを投稿したのだけれど、承認がないため行き場を失った文章の行く先を求めてブログ開設。
といっても、当の文章は既にこちらに投稿したわけだが。http://blogos.com/discussion/2014-05-09/satire/
以下はその拒否られた文章のコピペ。



パロディとは「作品」を批評的に笑いに変えるものであり、私人をモノマネして嘲笑することをパロディとは言わない。
また、作品を扱うパロディとは別に権力者を嘲笑する風刺という形の笑いがあるが、権力者ではない私人を嘲笑するのは単なるイジメである。
具体的に言えば、例えば野依理事長は風刺の対象になるが、小保方氏は風刺の対象たり得ない。また、佐村河内氏はパロディの対象になりうるが、小保方氏はパロディの対象たり得ない。

さて、たびたび引き合いに出される佐村河内氏と小保方氏が決定的に違うところ。
佐村河内氏の場合は自分のキャラクターをひとつの作品として自ら進んで世間に公表しそのことによって利益を得ていた。だからその「作品」を批評的に笑いに変えたものはパロディと言える。(権力を持たない個人を笑いにするのは私は好きではないが)
一方の小保方さんは、自分のキャラクターを売る意図はまったくなくて、本人の意思に反してそのキャラクターを作品化したのはマスメディア(と理研広報)で、さらにマスメディアが本人の意に反して勝手にキャラクター化したリケジョの小保方さんという「作品」(そのことについて本人は怖かったと言っている)を、さらにパロディにするという2重の罪を犯している。
テレビ局なんて下種な人間たちの集まりなのかもしれないけれども、バラエティ番組の製作者は笑いを「仕事」にするのなら少しは笑いの意味をまじめに考えろよと思う。

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