よもや真話

気になるニュースのことなどをダラダラと

STAP騒動に関して、匿名の研究者ではあるが科学者にしては珍しく客観的視点を持ってこの問題を論じているブログがある。(ネット上で交わされる科学者達の発言等を目にして、私は科学者とはメタ視点を持てない視野狭窄な人種なのだと今では認識している。)
その中でこういう意見が述べられている。

『残念なことは、もし石井委員長の不正調査委員会が、「実験ノートからはテラトーマ作製実験(捏造と認定された画像の基となる実験)が本当に行われたかどうかフォローできなかったので、再実験をして証明せよ」と3月の段階で小保方氏に命じていたなら、7月には今日と同じ状態が導かれていた事であろう。笹井氏の死はなかったであろうし、CDBも解体的出直しを迫られることはなかった。』

なぜこんな当たり前のことが出来なかったのか。そうしていれば笹井氏は死なずに済んだというのはまったくその通りだと思う。同じ結果ではなかった可能性もあったのではないかと私は思っているが、少なくともここまで関係者たちを苦しめることはなかったはずだ。しかし、現実には調査委員会の不十分な調査を基にした「不正認定」を確定した事実として、科学者たちは小保方氏を犯罪者扱いして来た。
相澤氏の「犯罪者扱い」発言はもちろんマスコミに対する批判もあるが、記者会見終了後に一旦退出したあと引き返して発言をした意味は、実験責任者として理研を代表する立場で会見したあと、組織の代表ではなくひとりの科学者として、こういう事態に陥った元凶である理研の理事達への抗議の意味が大きかったように思う。記者会見の席で理研を代表する立場でこのようなことは言えない。

このように自分の立ち居地で話せること話せない事、話すべきでないことというものがあるのだが、マスコミはそういうことは一切考慮せず自分の疑問には何でも答える義務があるように報道する。例えば、4月9日の小保方会見は、調査委員会の調査が不十分であり再調査をして欲しいと言う旨の不服申し立てに関する会見だったが、NHKを初めとするマスコミは「疑義に対する反論会見」であるかのように報道し、メディアリテラシーに欠ける人たちはそのように誤認した。

理研という組織は、疑義が指摘された当初から小保方氏に対外的に反論する機会を与えないままなんとか収めようとし、庇い切れないとなったあとは調査対象として口を塞いでいた。そうして4月1日、当事者を表に出さないままいきなり「小保方晴子は単独で不正行為を行った」と全国民に向かって発表したのだ。理研が「下手人はコイツです」と世間に首を差し出した訳だから「犯罪者扱い」は当然の成り行きだろう。
これに対して小保方氏は理研に所属する研究員として所属する組織に対して再調査を求める不服申し立てをし、巨大な組織に対してちゃんとした手続きを取って欲しいと、そのことを世間に訴えかけるための会見を個人の立場で開いた訳だが、マスコミは論文の疑義に対する反論会見と位置づけて報道し、それに乗せられた科学者たちの反応は「疑義に対する答えがない」一色になった。

本来論文の疑義に対する反論は、理研として理研職員の立場で行われなければならず、あの場は自分の所属する組織に対して異議申し立てをする個人の立場なのであって、あの時小保方氏は決して疑義に対して反論出来る立場には居なかったのだ。しかしそのことは議論の中ではなぜか完全に無視されることになる。ほんのちょっと、ものごとを俯瞰してみれば自分たちがいかに不当なバッシングに加担しているのか気づきそうなものなのに、批判者たちはまったくその自覚がない。

そしてさらに、彼らは理研の不十分な調査に対してさんざん非難をしておきながら、不十分な調査で出された「不正認定」だけは確定した事実として採用するというご都合主義で集団リンチを続けた。この不当なバッシングは、犯罪者扱いをされ集中砲火を浴びる小保方氏はもちろんのこと「そんな場所に立たせてしまった」笹井氏の心を痛めつけ、死に追い込んだ。こんな滅茶苦茶がまかり通るのが科学の世界なんだと世に知らしめたのが今回のSTAP騒動だ。

組織を離れた今、もし小保方氏の精神が壊れずに生きる力が保てているのなら、最後に指摘されている疑義に対して科学的に答えて欲しいと思う。論文の著者としてこういう結果になったことについて今の自分の考えを語ってほしい。
しかし小保方氏には、研究者としてやり直せる可能性は恐らく殆どないのだろう。でもこの不条理に対して、間違っても例えば幸福の科学のような怪しげな団体に助けを求めるようなことにならないで欲しい。
STAP騒動では本当にひどい世界を目にしてしまった。

裁判について思ったことを書いたコメントをコピペします。
http://disktopaska.txt-nifty.com/aska/2014/08/22-67dd.html

併合罪の説明ありがとうございます。
私は刑法について詳しくはないのですが、刑法47条は罪に対する刑罰を有期刑とされたときに初めて意味を持つもので、殺人罪の法定刑は最高で死刑なので有期刑に限定することが無ければ併合罪には余り意味はないのではないでしょうか。
そして今回「有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」とされ有期刑が選択されたのは、起訴状にあった三点の罪についてのみ裁かれたからではないでしょうか。強姦や脅迫、強要、ストーカー行為、リベンジポルノ等の被害者が受けた苦痛に対する罪は、それ自体は裁かれることなく量刑判断の参考資料として採用され、裁判員はその悪質性を認めて併合罪を使った有期刑としての上限の判決を出したわけです。

しかしもしも、強姦や脅迫強要ストーカー行為、リベンジポルノ等も「罪」として裁かれていたならば、「有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」という判断そのものが違っていた可能性もあると思います。
法は起訴事実についてのみ刑罰を課すことになるのでこの事件は三点の罪についてのみ裁かれたわけで、それついて「有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」となっていて、もしすべての罪を俎上に上げこの犯罪に正面から向き合えば「有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」という判断はなかったかもしれません。
少なくとも「男女トラブルの殺人で被害者が1人」という紋切り型の判決文にはならなかったのではないでしょうか。

この裁判は控訴したとしても裁判員が出した一審判決より二審での判決が重くなることは考えにくいので、検察側は控訴しない方向で遺族を説得しているかもしれません。犯人もこれまでの言動から控訴しないことも考えられるのでこのまま確定してしまうかもしれません。
私はこの事件について、検察は被害の残酷さを考えて死刑を求刑しても良かったと思うし、判決においては劣悪な成育環境が原因で人格が歪んでしまった犯人に対して一定程度の同情を示して無期懲役の判決で決着して欲しかったと思っています。
この裁判は、被害者遺族の苦しみをさらに深めるようなとても後味の悪い裁判でした。

遺族は「死刑の恐怖と懲役のリスクは比べものにならない」と言っていますが、私は基本的には死刑制度反対なのですがこの事件について考えると、死刑は抑止力になるんじゃないかと思うようになりました。この犯人は自分のリスクも計算していて、自分の犯罪が死刑にはならないことが前提で犯行を計画しているように思われます。もしこの殺人が死刑になると思ったら犯人はこの犯行を計画していなかったでしょう。
報道される遺族のコメントから、裁判での遺族の歯痒さが伝わってきて胸を締め付けられる思いがしています。

 三鷹のストーカー殺人で犯人に対して懲役22年の一審判決が出た。
 「強固な殺意に基づく高い計画性が認められ、動機はあまりに身勝手で同情の余地はごく乏しい」「反省を深めているとは認められず、謝罪の言葉すらない」としながら「量刑の幅の上限付近に位置づけられる重いものだが、有期懲役と質的に異なる無期懲役とまでは言い難い」として懲役22年の判決を言い渡した。

 この量刑について林正彦裁判長は「男女トラブルの殺人で被害者が1人の量刑の中ではほぼ上限に位置づけられるものといえる」として妥当性を強調した。恐らく裁判員に対しても「相場」についてこのような内容を説明したのだろう。


「男女トラブルの殺人で被害者が1人」

 用意周到な計画的犯行で、未成年の被害者に対して脅迫・強要を繰り返した挙句に殺害し、自分が殺した被害者を貶める目的で児童ポルノに該当する被害者の裸の画像を拡散させるという前代未聞の犯罪に対して、この紋切り型の量刑判断理由はあまりにひどすぎる。リベンジポルノとは、相手を貶めることによって自分が救われようとする自己中の極致とも言える行為である。そうした身勝手極まりない卑劣な行為を無視したかのようなこの判決理由には、被害の重大さをひどく軽く見られているようで遺族にとっては堪らない気持ちになるだろう。

 犯人は反省の気持ちはまったく湧いていないどころか、何か発言するたびに被害者遺族の感情を逆なでするような自己中心的で自分を美化した言葉を吐き出し続けている。
 もし犯人が本当に自分と向き合い反省し、被害者と両親に対する謝罪の気持ちを持つことが出来るのなら、遺族も少しは救われることもあるだろう。しかし、反省の気持ちも湧かない今の状況で「遺族に手紙を書きたい」などとした発言からも伺えるように、自己承認欲求だけが強く他者への共感能力がまったく欠如した人格が果たして矯正可能なのだろうか。

 もしもこの判決が確定したとして、遺族はこれからの人生をどのような思いで生きていくことになるだろうか。犯人の性格から、時機を見て自分の成育歴と被害者に対する思いなどを自分を盛大に美化して書いた獄中手記なども出しそうな気がしている。
 22年というのはちょうど両親の残りの人生の時間と同じくらいの長さにあたる。被害者の両親が80歳を迎え自分の人生が終わり近づいた頃、娘を殺した男が40代からの人生を再スタートすることになる。この現実を思ったとき、両親は正気を保って生きていけるのだろうか。22年は遺族を苦しめ続ける遺族にとっての刑期となってしまうのではないだろうか。


 そもそも上限の量刑というが、起訴内容が「殺人」「住居侵入」「銃刀法違反」の三点しかなかったというのも驚きで、脅迫、強要、強姦、名誉毀損等、被害者が受けたありとあらゆる苦痛をまるで無視したような起訴状を書いた検察官にも問題があるのではないだろうか。それに起訴内容にストーカー規制法に関する罪状が入っていないのは一体どういうことだ。ストーカー被害相談当日に殺害されたという事態に、裁判での審理が警察の不手際に及ぶことを避けるために検察が意図的に起訴内容から外したのではないか。

 もしもそうだったとしたら、司法に裏切られ続けた被害者と遺族が可哀想でならない。

東京都議会で質問に立った女性議員に「早く結婚した方がいいんじゃないか」という野次が飛び、その様子がYouTube動画でも公開されたり、報道でも大きく取り上げられて大きな波紋が起きている。
この野次が女性蔑視で相手を侮辱している発言であることは疑いようが無く、問題発言として暴言を受けた議員が抗議するのは当然のことだろう。しかし、野次を発した人物は名乗り出ることなく、議会も発言者を特定しない方向で収めようとしているため大きな批判が起きている。
野次を飛ばした人物は、公の場で人を侮辱する発言をしているわけで、その人物は暴言を謝罪するか自分の発言の正当性を述べるかする義務がある。「匿名による誹謗中傷」を認めるようなことでは、都議会は有権者の信頼を失うことになるだろう。

ところが今、ネット上ではこの女性議員の素行についてあれこれ取り沙汰されていて、野次られて当然のような雰囲気を醸し出してさえいる。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20140620-00036575/
最初の一行でこの筆者の品位の無さを感じて全部を読み進めるのに一苦労したが、そこで紹介された動画と筆者の感じ方を見て、野次を受けて議員が涙を流した理由が良く分かった。議員はこの記事に紹介されているようなこれまでの素行やらなんだかんだで色々言われることも多かったのだろう。
野次を浴びた質問の動画を見ると、女性議員として女性問題について議員なりに真剣に考えて質問していることが質問内容から伺える。議員は都議会での初めての一般質問だったとのこと。その初めての質問で、議員としての役割を果たしたいと自分が真剣に考えて練り上げた質問をしている最中に自分の人格を否定する発言をされてしまい、「お前の言うことなど価値は無い」とでも言うように議員としてのすべてを否定されたような無力感を感じたのではないだろうか。
その悔しさはいかばかりかと、改めて議員に対する同情の念を禁じえない。

「どの口が言うのか」
確かにその通りなのかもしれない。そして議員に貼られたレッテルを見れば「目立ちたがりのパフォーマンスで女性問題を利用しようとしている」ようにも見えるのかも知れない。山本一郎氏の記事を読み、改めて問題シーンの動画を見たとき、野次のトーンから発言者はそういう認識で議員を見ているのではないかと私は感じた。
しかし、議員に貼られたレッテルがなければ、外見的には「議員一年生が精一杯考えて練り上げた質問を議会にぶつけ、都民の役に立ちたいという思いを踏みにじられた」姿なのである。

議員がどのような決意で議会に臨んだのかは本人以外には分からない。
しかし私は「議員は都民の役に立ちたいという願いから都議会議員になり、議員になって初めての議会質問で自分が精一杯考えて練り上げた質問を議会にぶつけた」質問だったと思いたいしそう思っている。
それを踏みにじるような野次を飛ばした人物は正直に名乗り出て謝罪するか、もしくは自分の発言が正当だったと思うのなら正々堂々と反論を展開しなければならない。
「匿名による誹謗中傷」をしたまま頬被りでは、議員の資格などあろうはずがない。

犯罪者を罰するのはその罪に対してのみでなければならない。
歌手のASKAが覚せい剤所持で逮捕され、レコード会社がCDを出荷停止した上で回収していることが話題になっているが、犯罪事実と無関係な楽曲が影響されるのは道理にかなっていない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。罪が憎けりゃ人まで呪う。 そんな扇情的で非合理的な対応がまかり通る社会は恐ろしい。しかし、音楽業界の場合はイメージ商売なのでイメージダウンになるものは撤去するという判断は仕方ない面もあるだろう。
その少し前に、福岡県の小学校校長が覚せい剤所持で逮捕されるというショッキングなニュースがあった。そして、その校長は校歌の作曲者であったためにどう対応すべきか検討されたそうだ。

では、イメージ商売ではない学校教育の現場ではどう対応しなければならなかったか。

信頼していた校長が覚せい剤というとんでもない犯罪に手を染めた。
子供たちにどう説明して良いのかとても悩むと思う。昨日まで身近な「偉い人」だった校長先生が、それも教育熱心と思われていた校長先生が反社会的な悪いことをしたのだということをどう伝えれば良いのか非常に悩むところだろう。さらに、その校長が作曲した校歌の問題。
しかし、実はこれは子供たちの道徳教育の材料として格好の素材だったのではなかったか。
「犯罪者を罰するのはその罪に対してのみでなければならない。」
校歌について毅然とした姿勢で子供たちに「正義」とは何かを教える絶好のチャンスだったのではないか。

ところが関係者の話し合いでは「子どもたちに正しいことを教えるためにも不祥事を起こした人物の曲は変更する必要がある」という意見で全会一致したと言う。つまり「悪いことをした人が作ったものは使ってはいけません」と教えることが正しい教育だと言う。こんな差別的な価値観を植えつけられて子供たちは育っていくのか。

校歌を聴けばさまざまな受け止め方をする者が出てくることだろう。曲を聴けばその陰には校長がいてその犯した罪が付きまとうし、「犯罪者が作った曲を校歌にするなんて」という苦情を言ってくる親もいるだろう。あるいは、事件により校歌が注目されることで逆に作曲者としての栄誉を与えるような形になれば、それはそれで問題があるだろう。しかし、 そんな事情によって道理を曲げて正義を偽ることの方が、どれほど子供たちに悪影響を及ぼすか。

関係者は平穏な毎日を取り戻すために忌まわしい事件に関するものを消し去りたいのかもしれない。前代未聞の事件を起こした校長が存在した形跡を消したいのかもしれない。しかし、それは問題から逃げているだけだ。そうやって大人が逃げたせいで子供たちは正義を理解することが出来なくなるのだ。

ある作品の制作者がその作品とは無関係なところで罪を犯した時、その犯罪者が作ったものを廃棄することは非常に野蛮な行為だ。廃仏毀釈のようなことはすべきではない。
罪を犯した校長に対する懲戒の意味合いならば作曲者としての栄誉を剥奪すれば良いわけで、作者不詳とでもして作品そのものは残すべきだったのではないか。

それにしても、校歌の歌詞はそのままに曲だけ変えるというこの判断を「子どもたちに正しいことを教えるために」と言って憚らない教育関係者たちには絶望的な気持ちになる。

先日“宇宙膨張の決定的証拠”は誤りではないかというニュースがあった。
宇宙が膨張を続けているというのは科学的に通説となっているが、私は知らなかったがこれまでは宇宙膨張の仮説を裏付けるさまざまな証拠はあっても決定的証拠に欠けていたようだ。

地球は回っているという発見。宇宙は膨張しているという発見。
STAP細胞はこれらと同じような話で、小保方さんは細胞は刺激によって初期化されるという発見をしその実験を成功させてきた。理化学研究所はその実験結果に驚き、彼女を研究ユニットリーダーとして採用し研究成果を世間に公表する準備を始めた。
折りしも理研においては特定法人化の話が進んでいて、国民の理解を得るためにも華々しい研究成果を欲して功を焦っていたであろうことは否めない。小保方さんの説明にある、論文を急かされるプレッシャーを受けていたというのは嘘ではないだろう。
ところが、小保方さんは論文作成の仕方が杜撰だったために、STAP細胞の存在を証明する「決定的証拠」を取り間違えて研究成果を自分で証明することが出来なかった。

そしていま、細胞が初期化されるという発見自体が捏造であるかのように非難される中、笹井博士という権威ある科学者からSTAP細胞の存在は「有力な仮説」に戻ったとされている。そして、理研では仮説の提唱者で発見者である小保方さんを排除した形でSTAP細胞の検証実験が行われることになった。

私は、仮説の提唱者で現象の発見者である人を排除してその仮説を検証するのは、存在が証明出来なかった場合にはそれでも良いのかもしれないが、証明された場合にはどうしても手柄の横取りにしか思えない。理研が仮説を放棄できないでいる時点で、仮説の提唱者で現象の発見者である小保方さんが排除されるのは道理に合わないのではないか。

科学コミュニティにおいては証明した人が偉いのだろうが、一番偉いのは現象の存在を発見しその実験を成功させた人ではないかと私は思う。しかし、小保方さんは今や科学コミュニティにおいては科学者失格の烙印を押され研究を続ける道は閉ざされてしまい、世間からは稀代のペテン師のように扱われ、追い詰められてしまっている。
科学コミュニティの秩序を守る上では、存在の証明に失敗した研究者を排除した形で存在を証明することは大切なのかもしれないが、社会にとって重要なのは「存在する」ことそれ自体であって、証明したことの手柄など二の次三の次でしかない。

今回の経緯は、科学コミュニティが一種の治外法権のような状態になってしまっているために、なにか異次元の社会構造の中で事態が繰り広げられている印象を持ってしまう。
この問題がこういう経緯を辿った原因はどこにあるのかと言えば、科学コミュニティという法治国家のそれとは異次元の社会構造の中にあって、捏造疑惑の被疑者の立場にありながらその中から検察官を選び当の検察官が有罪判決を下すという自作自演とも言える統治システムを社会に晒した、理化学研究所という組織の問題であることは明らかだが、その他にも行き過ぎた権威主義が罷り通る科学コミュニティの異常性と、報道する側までもが権威主義に囚われ絡め取られたマスメディアの無能さにあるのではないだろうか。

理研はSTAP現象が有力な仮説だと言うのなら、仮説の証明が少しでも前に進めるように、裁判などで無駄な時間を費やさずに済むように、小保方さんを参加させた実証実験を行うべきだろう。

めちゃイケ問題でなんやかんや書いていたのもののひとつをコピペ。
http://blogos.com/discussion/2014-05-09/satire/


パロディは人格ではなく作品に対して行うものであり、芸能人などの有名人がパロディの対象となるのは、自身がそのキャラクターを作品として商品化しているからであり、その「作品」に対しての笑いがパロディです。
その基本的なことをバラエティ番組の制作者が理解していないから、今回のような間違いをたびたび起こすのです。テレビ関係者が「こんなことでいちいち抗議を受けていたらたまらない」と話していたという記事を見かけましたが、明確なラインを理解していないからこんなモラルに欠けた発言をするのでしょう。「阿呆方」もひどいですが問題はそこではありません。

芸能人などは自分のキャラクターが商売道具であり、即ちそれはひとつの作品でありパロディの対象となりますが、小保方氏のようなひとりの研究者をその仕事とは関係ないところでキャラクターを勝手に作品化し、さらに勝手にモノマネして笑うのはパロディの要件を満たしておらず、明らかに人格権の侵害です。
だから、風刺やパロディの要件を満たしていない人たちを笑いの対象とすることは、本人の同意がなければ小保方氏に限らず絶対にやってはいけないのです。タレントが「本人に実際に見てもらったらきっと笑ってもらえた」と言っていますが、事後承諾で良いと考えるのは笑いを仕事にする者の態度として最悪だと思います。
本当の風刺やパロディなら本人の承諾など不要であり、対象となった人が不快に感じるかどうかは関係ありません。逆に風刺やパロディの要件を満たさないものは本人の了解は不可欠でその場合は事後承諾では駄目なのです。
良く「ギリギリの笑い」と言いますが、ギリギリのラインは人格権とは別次元の下品だとかの価値観についてのもので、対象として良いか悪いかにギリギリはありません。

NHKのコント番組『LIFE!~人生に捧げるコント~』のコントのひとつ『NHKなんで』は「お堅いNHK」をデフォルメしたコントで私も大好きなコントなのだが、先日放送されたものは特に秀逸で、それは国会で「NHKのバラエティーが低俗」と追及した議員がいたことを意識して作られており、そんな「国会の追及にコントで応戦」したNHKに対し、「これこそ攻めの笑い!」とたくさんの人がその内容の深さを賞賛している。しかし、それも褒め過ぎると「笑いってそんなに高尚なもんなのか?」といった反発を生むことにもなるだろう。

深い部分なんてなんの興味もなく単に面白いかどうかで選ぶのが大衆というもの。見る方にしてみれば余計なことをなんも考えずに大笑い出来れば十分だし、LIFE!のコントで言えばイカ大王やゲスニックマガジン、宇宙人総理などの深読みしないで単純に笑える笑いの方が、より素直に楽しめてよりたくさんの人の共感も得られるだろう。

そういう意味で例えば民放の番組制作者が「知的な笑いなどクソくらえ」と、より大衆的な笑いを追求するのは良いことなのだが、その際に大事なことは裏方の制作者には知性は不可欠なのだということだ。番組予告で騒動になり放送を取りやめたフジテレビのめちゃイケ「阿呆方さん」のような、知性に欠ける制作スタッフの下劣さをそのまま表したような質の悪い笑いを作っておいて「こんなことでいちいち抗議を受けていてはたまらない」と言うような番組制作者のモラルの低さは大いに批判されるべきだろう。

笑いを楽しむ視聴者には別に知性は必要ないが、提供する側の制作者には知性とモラルは必要不可欠で、低俗番組と呼ばれるような番組を制作するにもタレントを使う制作スタッフには知性とモラルはなくてはならない。ところがそのどちらもスタッフに欠けているのがめちゃイケやロンハーと言ったバラエティ番組だ。

キャラクターの面白さで笑いを取るのは笑いの王道だが、制作者が捻り出して作り上げたキャラクターで笑いを生むLIFEのスタッフと、タレントのキャラクター頼みで番組制作をしてきたバラエティ番組のスタッフの「笑い」に対する意識の違いは歴然としている。

めちゃイケやロンハースタッフの笑いに対する考え方の安易さが、キャラクターはタダで拾えるものといったいい加減な扱いをしてしまい、今回のように「小保方さん」という際立つキャラクターをお手軽に拾って勝手に商品化しパロディにするという間違いを犯す元となっている。
そして抗議を受けてもなお「トーンを下げるのでやらせて欲しい」と言ってきたとか。守ったら負けの精神のつもりか知らないが、根本的な間違いを分かっていないからこんな図々しいことが言えるのだろう。

笑いが高尚である必要はないが、笑いを作る者に知性がないのは致命的だろう。

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